だいぶ晩酌が利いているらしい

「まだ来たばっかりです。来ると直ぐあなたにお目に掛かったのです」「柏屋には別品がいるでしょう」と、岡村が詞を挟んだ。「どうですか。まだ来たばっかりですから、僕には分かりません」「そんな事じゃあ困るじゃないか。我輩なんぞは宿屋に着いて第一に着眼するのはそれだね」 声と云い、詞と云い、だいぶ晩酌が利いているらしい。「世間の人が皆岡村さんのようでは大変ですわね」奥さんは純一の顔を見て、庇護《ひご》するように云った。 岡村はなかなか黙っていない。「いや、奥さん。そうではありませんよ。文学者なんというものは、画かきよりは盛んな事を遣るのです」これを冒頭に、岡村の名を知っている、若い文学者の噂が出る。近頃そろそろ出来掛かった文芸界の 〔Bohe'miens〕《ボエミアン》 が、岡村の交際している待合のお上だの、芸者だのの目に、いかに映じているかと云うことを聞くに過ぎない。次いで話は作品の上に及んで、「蒲団《ふとん》」がどうの、「煤烟《ばいえん》」がどうのと云うことになる。意外に文学通だと思って、純一が聞いて見ると、どれも読んではいないのであった。 純一にはこの席にいることが面白くない。しかしおとなしい性《たち》なので厭な顔をしてはならないと思って、努めて調子を合せている。その間にも純一はこう思った。世間に起る、新しい文芸に対する非難と云うものは、大抵この岡村のような人が言い広めるのだろう。作品を自分で読んで見て、かれこれ云うのではあるまい。そうして見れば、作品そのものが社会の排斥を招くのではなくて、クリク同士の攻撃的批評に、社会は雷同するのである。発売禁止の処分だけは、役人が訐《あば》いて申し立てるのだが、政府が自然主義とか個人主義とか云って、文芸に干渉を試みるようになるのは、確かに攻撃的批評の齎《もたら》した結果である。文士は自己の建築したものの下に、坑道を穿《うが》って、基礎を危《あやう》くしていると云っても好《い》い。蒲団や煤烟には、無論事実問題も伴っていた。しかし煤烟の種になっている事実こそは、稍|外間《がいかん》へ暴露した行動を見たのであるが、蒲団やその外の事実問題は大抵皆文士の間で起したので、所謂《いわゆる》六号文学のすっぱ抜きに根ざしているではないか。 しず枝が茶を入れ換えて、主客三人の茶碗に注いで置いて、次へ下がった跡で、奥さんが云った。

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