画かきの悪口

「小泉さん。あなた余りおとなしくしていらっしゃるから、岡村さんが勝手な事ばかし仰ゃいますわ。あなたの方でも、画かきの悪口でも言ってお上げなさると好《い》いわ」「まあ僕は廃《よ》しましょう」純一は笑《わらい》を含んでこう云った。しかしこの席に這入ってから、動《やや》もすれば奥さんの自分を庇護してくれるのが、次第に不愉快に感ぜられて来た。それは他人あしらいにせられると思うからである。その反面には、奥さんが岡村に対して、遠慮することを須《もち》いない程の親しさを示しているという意味がある。極言すれば、夫婦気取りでいるとも云いたいのである。 岡村が純一に、何か箱根で書く積りかと問うたので、純一はありのままに、そんな企ては持っていないと云った。その時奥さんが「小泉さんなんぞはまだお若いのですから、そんなにお急ぎなさらなくても」と云ったが、これも庇護の詞になったのである。純一は稍反抗したいような気になって、「先生は何かおかきですか」と問い返した。そうすると奥さんが、岡村は今年の夏万翠楼の襖《ふすま》や衝立《ついたて》を大抵かいてしまったのだと云った。それが又岡村との親しさを示すと同時に、岡村と奥さんとが夏も福住で一しょにいたのではないかと云う問題が、端なく純一の心に浮んだ。 純一はそれを慥《たしか》めたいような心持がしたが、そんな問を発するのは、人に言いたくない事を言わせるに当るように思われるので、気を兼ねて詞をそらした。「箱根は夏の方が好《い》いでしょうね」「そうさ」と云って、岡村は無邪気に暫く考える様子であった。そして何か思い出したように、顴骨《かんこつ》の張った大きい顔に笑《えみ》を湛えて、詞を続《つ》いだ。「いや。夏が好くもないね。今時分は靄《もや》が一ぱい立ち籠《こ》めて、明りを覗《ねら》って虫が飛んで来て為様《しよう》がないからね。それ、あの兜虫《かぶとむし》のような奴さ。東京でも子供がかなぶんぶんと云って、掴《つか》まえておもちゃにするのだ。あいつが来るのだね」 奥さんが傍《そば》から云った。「それは本当に大変でございますの。障子を締めると、飛んで来て、ばたばた紙にぶっ附かるでしょう。そしておっこって、廊下をがさがさ這い廻るのを、男達が撈《さら》って、手桶《ておけ》の底に水を入れたのを持って来て、その中へ叩き込んで運んで行《い》きますの」 純一は聞きながら、二人は一しょにそう云う事に出逢ったと云うのだろうか、それとも岡村も奥さんも偶然同じ箱根の夏を知っているに過ぎないのだろうかと、まだ幾分の疑いを存《そん》じている。 岡村は少し興に乗じて来た。「随分かなぶんぶんには責められたね。しかし吾輩は復讎《ふくしゅう》を考えている。あいつの羽を切って、そいつに厚紙で拵《こしら》えた車を、磐石糊《ばんじゃくのり》という奴で張り附けて曳《ひ》かせると、いつまでも生きていて曳くからね。吾輩は画かきを廃して、辻に出てかなぶんぶんの車を曳く奴を、子供に売って遣ろうかと思っている」こう云って、独りで笑った。例の嘶《いなな》くように。

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