磐石糊

「磐石糊というのは、どんな物でございますの」と、奥さんが問うた。「磐石糊ですか。町で幾らも売っていまさあ」「わたくしあなたが上野の広小路あたりへ立って、かなぶんぶんを売っていらっしゃる処が拝見しとうございますわ」「きっと盛んに売れますよ。三越なんぞで児童博覧会だのなんのと云って、いろんなおもちゃを陳列して見せていますが、まだ生きたおもちゃと云うのはないのですからね」「直ぐに人が真似をいたしはしませんでしょうか。戦争の跡に出来たロシア麪包《パン》のように」「吾輩専売にします」「生きた物の専売がございましょうか」「さあ、そこまでは吾輩まだ考えませんでした」岡村は又笑った。そして言い足した。「とにかくうるさい奴ですよ。大抵|篝《かがり》に飛び込んで、焼け死んだ跡が、あれ程遣って来るのですからね」「ほんとにあの篝は美しゅうございましたわね」 純一ははっと思った。この「美しゅうございました」と云った過去の語法は、二人が一しょに篝を見たのだと云うことを 〔irre'futable〕《イルレフュタアブル》 に証明しているのである。情況から判断すれば、二人が夏を一しょに暮らしたと云うことは、もう疾《と》っくに遺憾なく慥められているのであるが、純一はそれを問わないで、何等かの方法を以て、直接に知りたいと、悟性を鋭く働かせて、対話に注意していたのであった。 純一の不快な心持は、急劇に増長して来た。そしてこの席にいる自分が車の第三輪ではあるまいかという疑いが起って、それが間断なく自分を刺戟して、とうとう席に安んぜざらしむるに至った。「僕は今夜はもうお暇《いとま》をします」純一は激した心を声にあらわすまいと努めてこう云って、用ありげに時計を出して見ながら座を起った。実は時計の鍼《はり》はどこにあるか、目にも留まらず意識にも上《のぼ》らなかったのである。

— posted by id at 10:36 am  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.2263 sec.

http://andonoboru.com/