とても寐附かれそうにはない

 純一は取ってある床の中に潜り込んで、じっとしている。枕に触れて、何物をか促し立てるように、頸《くび》の動脈が響くので、それを避けようと思って寝返りをする。その脈がどうしても響く。動悸《どうき》が高まっているのであろう。それさえあるに、べろべろの神さんがしゅうねく祟《たた》って、呪文はいよいよ高く唱えられるのである。 純一は何事をも忘れて寐《ね》ようと思ったが、とても寐附かれそうにはない。過度に緊張した神経が、どんな微細な刺戟にも異様に感応《かんおう》する。それを意識が丁度局外に立って観察している人の意見のように、「こんな頭に今物を考えさせたって駄目だ、どうにかして寐かす事だ」と云って促している。さて意識の提議する所に依ると、純一たるものはこの際行うべき或る事を決定して、それを段落にして、無理にも気を落ち着けて寐るに若《し》くはない。その或る事は巧緻《こうち》でなくても好《い》い。頗る粗大な、脳髄に余計な要求をしない事柄で好い。却《かえっ》て愈々《いよいよ》粗大なだけ愈々適当であるかも知れない。 例之《たとえ》ば箱根を去るなんぞはどうだろう。それが好《い》い。それなら断然たる処置であって、その癖|温存《おんそん》的工夫を要する今の頭を苦めなくて済む。そして種々の不愉快を伝達している幾条の電線が一時に切断せられてしまうのである。 箱根を去るのが実に名案である。これに限る。そうすれば、あの夫人に見せ附けて遣《や》ることが出来る。己だってそう馬鹿にせられてばかりはいないということを、見せ附けて遣ることが出来る。いやいや。そんな事は考えなくても好《い》い。夫人がなんと思おうと構うことは無い。とにかく箱根を去る。そしてこれを機会にして、根岸との交通を断《た》ってしまう。あの質《しち》のようになっているラシイヌの集《しゅう》を小包で送り返して遣る。早く谷中へ帰って、あれを郵便に出してしまいたい。そうしたらさぞさっぱりするだろう。 こう思うと、純一の心は濁水に明礬《みょうばん》を入れたように、思いの外早く澄んで来た。その濁りと云うものの中《うち》には、種々の籠《こ》み入った、分析し難い物があるのを、かれこれの別なく、引きくるめて沈澱《ちんでん》させてしまったのである。これは夜の意識が仮初《かりそめ》に到達した安心の境《さかい》ではあるが、この境が幸に黒甜郷《こくてんきょう》の近所になっていたと見えて、べろべろの神さんの相変らず跳梁《ちょうりょう》しているにも拘らず、純一は頭を夜着の中に埋《うず》めて、寐入ってしまった。

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