翌朝《よくあさ》

 翌朝《よくあさ》純一は早く起きる積りでもいなかったが、夜明《よあけ》近く物音がして、人の話声が聞えたので、目を醒《さ》まして便所へ行った。そうすると廊下で早立ちの客に逢った。洋服を着た、どちらも四十恰好《しじゅうがっこう》の二人である。荷物を玄関に運ぶ宿の男を促しながら、外套《がいとう》の衿《えり》の底に縮めた首を傾け合って、忙《せわ》しそうに話をしている。極めて真面目で、極めて窮屈らしい態度である。純一は、なぜゆうべのような馬鹿げた騒ぎをするのだと云って見たい位であった。 便所からの帰りに、ふと湯に入《い》ろうかと思って、共同浴室を覗《のぞ》いて見ると、誰《たれ》か一人這入っている。蒸気が立ち籠めて、好くは見えないが、湯壺の側に蹲《つくば》っている人の姿が女らしかった。そしてその姿が、人のけはいに驚かされて、急いで上がろうとするらしく思われた。純一は罪を犯したような気がして、そっとその場を逃げて自分の部屋に帰った。 部屋には帰って見たが、早立ちの客の外は、まだ寐静まっている時なので、火鉢に火も入れてない。純一は又床に這入って、強いて寐ようとも思わずに、横になっていた。 目がはっきり冴《さ》えて、もう寐られそうにもない。そしてゆうべ床に這入ってから考えた事が、糸で手繰り寄せられるように、次第に細かに心に浮んで来る。 夜疲れた後《のち》に考えた事は、翌朝になって見れば、役に立たないと云う経験は、純一もこれまでしているのだが、ゆうべの決心は今頭が直ってから繰り返して見ても、やはり価値を減ぜないようである。啻《ただ》に価値を減ぜないばかりでは無い。明かな目で見れば見る程、大胆で、〔he'roique〕《エロイック》 な処が現れて来るかとさえ思われる。今から溯《さかのぼ》って考えて見れば、ゆうべは頭が鈍くなっていたので、左顧右眄《さこゆうへん》することが少く、種々な思慮に掣肘《せいちゅう》せられずに、却って早くあんな決心に到着したかとも推《すい》せられるのである。 純一はきょうきっと実行しようと自ら誓った。そして心の中にも体の中にも、これに邪魔をしそうな或る物が動き出さないのを見て、最終の勝利を羸《か》ち得たように思った。しかしこれは一の感情が力強く浮き出せば、他の感情が暫く影を歛《おさ》めるのであった。後《のち》になってから、純一は幾度か似寄った誘惑に遭って、似寄った奮闘を繰り返して、生物学上の出来事が潮の差引のように往来するものだと云うことを、次第に切実に覚知して、太田|錦城《きんじょう》と云う漢学の先生が、「天の風雨の如し」と原始的な譬喩《ひゆ》を下したのを面白く思った。

— posted by id at 10:38 am  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1793 sec.

http://andonoboru.com/