自分の想像したあの女

「おい」と純一は呼び留めた。「お絹さんというのは誰《だれ》だい」「そら、けさこちらへお火を入れにまいったでしょう。きのうあなたがお着きになると、あれが直ぐにそう云いましたわ。あの方は本を沢山持っていらっしゃったから、きっとお休みの間勉強をしにいらっしゃったのだって」 こう云って置いて、女中は通い盆を持って廊下へ出た。 純一はお絹と云う名が、自分の想像したあの女の性質に相応しているように思って、一種の満足を覚えた。そしてそのお絹が忙《いそが》しい中で自分を観察してくれたのを感謝すると同時に、自分があの女の生活を余り卑しく考えたのを悔いた。 雑煮の代りが来た。給仕の女中から、お絹の事を今少し精《くわ》しく聞き出すことは、むずかしくもなさそうであったが、純一は遠慮して問わなかった。意味があって問うように思われるのがつらかったのである。 純一は取り散らしたものを革包の中に入れながら、昨夜《ゆうべ》よりも今朝起きた時よりも、だいぶ冷かになった心で、自己を反省し出した。東京へ帰ろうと云う決心を飜《ひるがえ》そうとは思わない。又それを飜す必要をも見出さない。帰って書いて見ようと思う意志も衰えない。しかしその意志の純粋な中へ、極《ごく》軽い疑惑が抜足《ぬきあし》をして来て交《まじ》る。それはこれまで度々一時の発動に促されて書き出して見ては、挫折《ざせつ》してしまったではないかと云う※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささや》きである。幸な事には、この※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]きは意志を麻痺《まひ》させようとするだけの力のあるものではない。却て製作の欲望を刺戟して、抗抵を増させるかと思われる位である。 これに反して、少しの間に余程変じたのは、坂井夫人に対する感じである。面当てをしよう、思い知らせようと云うような心持が、ゆうべから始終幾分かこの感じに交っていたが、今明るい昼の光の中で考えて見ると、それは慥《たし》かに錯《あやま》っている。我ながらなんと云うけちな事を考えたものだろう。まるで奴隷のような料簡《りょうけん》だ。この様子では己はまだ大いに性格上の修養をしなくてはならない。それにあの坂井の奥さんがなんで己が立ったと云って、悔恨や苦痛を感ずるものか。八年前に死んだ詩人 Albert《アルベエル》 Samain《サメン》 は Xanthis《クサンチス》 と云う女人形の恋を書いていた。恋人の中には platonique《プラトニック》 な公爵がいる。芸術家風の熱情のある青年音楽家がいる。それでもあの女人形を満足させるには、力士めいた銅人形がいなくてはならなかった。岡村は恐らくは坂井の奥さんの銅人形であろう。己はなんだ。青年音楽家程の熱情をも、あの奥さんに捧《ささ》げてはいない。なんの取柄があるのだ。己が箱根を去ったからと云って、あの奥さんは小使を入れた蝦蟇口《がまぐち》を落した程にも思ってはいまい。そこでその奥さんに対して、己は不平がる権利がありそうにはない。一体己の不平はなんだ。あの奥さんを失う悲《かなしみ》から出た不平ではない。自己を愛する心が傷つけられた不平に過ぎない。大村が恩もなく怨《うらみ》もなく別れた女の話をしたっけ。場合は違うが、己も今恩もなく怨もなく別れれば好《い》いのだ。ああ、しかしなんと思って見ても寂しいことは寂しい。どうも自分の身の周囲に空虚が出来て来るような気がしてならない。好いわ。この寂しさの中から作品が生れないにも限らない。 帳場の男が勘定を持って来た。瀬戸の話に、湯治場やなんぞでは、書生さんと云うと、一人前の客としては扱わないと云ったが、この男は格別失敬な事も言わなかった。純一は書生社会の名誉を重んじて茶代を気張った。それからお絹に多く遣りたい為めに、外の女中にも並より多く祝儀を遣った。 宿泊料、茶代、祝儀それぞれの請取《うけとり》を持って来た女中が、車の支度が出来ていると知らせた。純一は革包に錠を卸して立ち上がった。そこへお上さんが挨拶に出た。敷居の外に手を衝いて物を言う、その態度がいかにも恭《うやうや》しい。 純一が立って出ると、女中が革包を持って跡から来た。廊下の広い所に、女中が集まって、何か※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]き合っていたのが、皆純一に暇乞をした。お絹は背後の方にしょんぼり立っていて、一人遅れて辞儀をした。

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